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初めて世界に向けて赤色の中国を紹介した西洋の記者エドガー・スノー(その1)
2021-08-31 19:07

 1937年10月、ある奇書がイギリスのロンドンで出版され、数週間の内に10万冊余りを販売し、当月に3度増刷しても追いつかないほどであった。この本の名称は『中国の赤い星』、作者は初めて中国共産党を世界に紹介した人物— — アメリカ人のエドガー・スノー氏である。

       1937年10月,一本奇书在英国伦敦出版,几周内就销售10万余册,当月三次加印仍供不应求。这本书的名字叫做《红星照耀中国》,作者就是第一个把中国共产党介绍给世界的人——美国人埃德加·斯诺。

『中国の赤い星』(中国語版『西行漫記』)

《红星照耀中国》(中文版译名《西行漫记》)

 1930年代の中国は、中日戦争の戦火の中にいる。1935年10月、国民党の包囲網で追い詰められ、中国共産党指導のもとに、中央工農紅軍は万里の長征を経て、陝西省北部まで到達した。国民党の軍事的な包囲と報道の禁止を受けたことにより、その当時の延安は白色の海洋に浮かぶ赤色の孤島さながらであり、外界が中国共産党と紅軍に対する理解は、国民党によって「悪者」と化した姿だけである。

       1930年代的中国,处于抗日战争烽火中。1935年10月,在国民党的围追堵截下,中国共产党领导的中央工农红军经历万里长征,来到陕北。由于受到国民党的军事围困和新闻封锁,那时的延安犹如白色海洋中的红色孤岛,外界对中国共产党和红军的了解,只是被国民党妖魔化的形象。

エドガー・スノー氏陝西省北部にて

斯诺在陕北

 「中国共産党員は一体どんな人なのか?」なぜ何千何万という中国人が処刑される危険を冒してまでも共産党や紅軍に加入するのだろうか。職業柄、アメリカ人記者スノー氏は次のように信じている。国民党「万里の長城」のように封鎖された延安は、中国で唯一取材に値するニュースであった。宋慶齢の推薦の下、彼は「たとえどんな代価を払っても」必ず行かなければならないという決心を抱き、幾重もの関門を突破し、幾度も困難や危険に遭いながらも、遂に1936年7月13日、当時の中国共産党中央委員会所在地、保安に到着した。

       “中国共产党究竟是什么样的人?”为什么有成千上万中国人冒着被处决的危险加入共产党、加入红军?凭着职业敏感,美国记者斯诺相信,国民党“长城”般封锁线后的延安,是“中国唯一值得采访的消息”。在宋庆龄引荐下,他抱着“无论付出什么代价”都一定要去的决心,突破重重关卡,历经艰险,最终于1936年7月13日抵达当时中共中央驻地保安。

 その晩、彼は毛沢東氏に会った。微かな明かりが灯るそばで、彼らは夜を徹して窯洞(ヤオトン:洞窟式民居)で語り合った。いつも夜の9時から始まり、日が昇るまでずっと話し込んだ。これらの談話の中で、毛沢東は初めて紅軍がゼロから出発した発展過程を叙述し、根拠地(戦争の拠点)の建設及び政策を全面的に明らかにした。そして、初めて中日戦争の先行きと中国勝利の結末について語った。また共産党の抗日民族統一戦線に関する主張を述べ、国民党と共産党が協力し共に敵と闘う誠意を表した。また、初めて中国共産党と世界情勢の関係について言及、中華ソビエト政府の外交政策を論述し、中国は友好国家と相互尊重のもとでより大きな協力体制を築きたいと考えを示した。スノー氏は中国共産党員が従事する事業や、毛沢東氏の魅力と博学に深く魅了され、感服した。彼は、毛沢東氏の歴史が全世代にわたって繋がっていて、毛沢東の非凡性は彼が中国大衆の、特に農民の代弁者である点だと強く感じた。この経験はスノーによって「今まで体験した中で最も貴重な談話」と称されている。

       当晚,他就见到了毛泽东。就着微弱的烛光,他们进行了许多次彻夜窑洞长谈。通常从晚上9点多钟开始,一直到晨光熹微。正是在这些谈话中,毛泽东第一次完整叙述中国工农红军从无到有的发展过程,全面阐述根据地的建设及其各项政策。第一次预言了中日战争的发展前途和中国必胜的结局;全面阐述了共产党关于抗日民族统一战线的主张,表达了对国共合作共同抗日的诚意。第一次谈到中国共产党和世界事务的关系,论述了中华苏维埃政府的外交政策,表示中国愿同友好国家在互相尊重的基础上建立更大的合作。斯诺被中国共产党人所从事的事业、毛泽东的魅力和博学深深吸引、折服。他深感毛泽东的历史是中国整整一代人丰富的横断面,毛泽东的不凡之处就在于他是中国人民大众、特别是农民的代言人。这段经历被斯诺称为“生平经历过的最宝贵的谈话”。

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