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ノーマン・べチューン氏が遺言書に綴る中国共産党員の姿(その2)
2021-08-31 19:21

白求恩在晋察冀军区模范医院开幕典礼上致辞

晋察冀軍区模範病院の開幕式にて挨拶を述べるベチューン氏

 ほどなくして、ベチューン氏は自身がスペインの戦場で学んだ輸血技術を病院へ導入した。戦場医療現場での輸血は想像できないものであった。葉青山部長は袖をまくり、自ら八路軍戦場外科で初めての献血者となった。後の4か月間で、葉青山部長は2度にわたり献血し、ベチューン氏は「私は世界各国を回ったが、こんなにも優秀な人は見たことがない」と称賛した。後に、衛生部は戦地輸血部隊をつくり、負傷した戦士たちの生命を救う新たな希望をつくりだした。ベチューン氏はまた、このような組織形態に対し、「外科医学史上もっとも偉大な取り組みである」と称した。

       很快,白求恩将自己在西班牙战场上熟练掌握的输血技术带进医院。在野战医疗条件下输血,是人们连想都不敢想的事。叶青山部长挽起袖子,成为八路军野战外科史上第一位献血的人。在之后的4个月中,叶青山又献了两次血,白求恩赞叹:“我到过世界许多地方,从没见过这样高尚的人。”后来,卫生部门组成了战地输血队,为抢救伤员生命开辟了新的途径。这种组织形式,被白求恩称为“外科医学历史上的一个伟大创举”。

 後方病院の機動性が良くないことから、ベチューンは手術室を前線に近づけることで負傷した戦士たちにすぐに対応できると考えた。軍区はその提案に従い、手術チームを設立し、游勝華衛生部副部長を筆頭に晋察冀各分区で前線救護を実施した。4か月間で、750㎞移動し、300回余りの手術をし、13の手術室及び救護室を設置、多くの負傷者を救ってきた。ベチューン氏の直接助手となった游勝華の医療の腕はみるみる上達し、ベチューン氏から「最高の外科医だ」と高く評価された。

       由于后方医院机动性差,白求恩认为只有把手术室设在靠近前线的地方,才能及时有效地抢救伤员。军区根据白求恩的提议成立了战地手术队,卫生部副部长游胜华带队随同白求恩辗转晋察冀各个分区实施前线救护。4个月里,行程750公里,做手术300余次,建立手术室和包扎所13处,救治了大批伤员。直接为白求恩做助手的游胜华,医术越来越精湛,白求恩称他为“我最满意的外科医生”。

白求恩做手术

手術を行うベチューン氏

 1年余りの月日の中で、人々の目には、ベチューン氏は、人々に愛され尊敬され、自分たちとは異なる容姿をもち、気性さえ荒いものの、優しく忍耐強く戦士たちと接する医師という風に映っていた。しかし、この勇敢で、私利私欲なく、生き生きとした生命がこんなにも早く終わりを迎えるなど、だれが想像したことだろうか。

       一年多的时间里,在边区军民眼里,外国人白求恩已然成为大家深深爱戴的白求恩大夫,他容貌不同、脾气暴躁,但所有温柔和耐心却都给了伤员战士。可谁也不曾想,这一个勇敢的、无私的、灿烂的、高尚的生命竟这么快便到终篇。

 1939年7月、日本軍侵略による封鎖で、医療機器や薬品は深刻な不足に陥り、ベチューン氏は帰国し経費、医薬品、医療機器を集めようとし、同時に、全世界に向けて、中国の抗戦を伝え、日本ファシズムの暴行を明るみにしようと試みた。1939年10月、再度大規模な日本軍の掃討作戦により、彼は残留することを決め、聶栄臻氏に「戦争中に部隊を抜けるわけにはいかない。この闘いが終わってから改めて帰国することにする。」と告げた。

       1939年7月,由于日寇封锁,边区医疗器械、药品严重短缺,白求恩决定申请回国募集经费、药品和医疗器械,同时向全世界宣传中国的抗战,揭露日本法西斯的暴行。就在白求恩行将动身的1939年10月,日寇再次发动了大规模的“扫荡”,白求恩毅然决定留下,他对聂荣臻说:“我不能在战斗的时候离开部队!等这场战斗结束,我再启程。”

 ベチューン氏は医療チームを率い、灤源摩天崚の前線に立ち、最前線に近い場所に手術室を設置、緊急医療を行った。午後の負傷者の手術時に、彼の左中指は負傷し、さらに炎症を起こし腫れあがった。11月1日、ベチューン氏が丹毒と蜂巣炎の合併症を患った患者の治療中、負傷した指に菌が入り込んだ。死に至らせるウイルスが体内で転移し、ベチューン氏は高熱に苦しんだが、それでもなお前線で救護にあたった。病に苦しみながらも、続けて13回の手術を執刀し、マラリア治療の概略を書きあげた。聶栄臻氏の幾度にわたる説得で、ベチューン氏はついに軍区後方病院で治療を受けることを承諾したが、初期感染が既に敗血症へと進行しており、左腕は黒く変色し、病状は回復が見込めない状態にまでなってしまっていた。

       白求恩带医疗队赶往滦源摩天岭的前线,在临近火线的孙家庄小庙里设立手术室抢救伤员。一天下午,在为伤员做手术时,他的左手中指受伤,局部发炎肿胀。11月1日,白求恩在救治一名患颈部丹毒合并蜂窝组织炎的伤员时,他带伤的手指受到致命的病菌感染。致命菌在他体内疯狂地转移扩散,白求恩已经高烧不退,但他却坚持要到前线去继续救治伤员。在钻心疼痛的折磨中,他又连续做了13台手术,并写下了治疗疟疾的讲课提纲。在聂荣臻多次命令下,白求恩终于答应到军区后方医院治疗,但早期的感染已转为败血症,白求恩的左臂变成黑色,病情已无力回天。

 1939年11月12日未明、ベチューン氏は河北省唐県黄石口村で亡くなった。彼の死は、人々に底知れない悲しみを与えた。17日、晋察冀の党、政、軍トップや現地大衆が彼の葬儀を行った。

       1939年11月12日凌晨,白求恩在河北省唐县黄石口村逝世。他的逝世,给边区军民带来无限悲痛。17日,晋察冀边区党、政、军领导机关和驻地群众为他举行了隆重的葬礼。

白求恩大夫追悼大会

ベチューン医師の追悼式

 12月1日、延安各界が追悼式を行い、毛沢東氏が弔辞を読み、さらに12月21日には「白求恩を記念する」と題した文章に、「私と白求恩同志はたった一度会っただけだったが、その後彼は幾通もの手紙をくれた。立て込んでいたので、1通だけ彼に手紙を返したが、届いていたかさえ不明である。彼の死をとてもつらく悲しく思う。今、我々は彼を想い起こすのは、彼の精神が人々の心を動かした証拠である。我々は彼の私利私欲のない心を見習うべきである。ここを起点に、人民のために努める人になろう。一人ひとりの能力は個人差があるが、この精神さえあれば、品位がある人、純粋な人、道徳のある人、気品あふれる人、人民のために尽くす人であるといえるだろう。」と綴ったのであった。

       12月1日,延安各界举行追悼大会,毛泽东题了挽词,并于12月21日写了《纪念白求恩》,文中写道:“我和白求恩同志只见过一面。后来他给我来过许多信。可是因为忙,仅回过他一封信,还不知他收到没有。对于他的死,我是很悲痛的。现在大家纪念他,可见他的精神感人之深。我们大家要学习他毫无自私自利之心的精神。从这点出发,就可以变为大有利于人民的人。一个人能力有大小,但只要有这点精神,就是一个高尚的人,一个纯粹的人,一个有道德的人,一个脱离了低级趣味的人,一个有益于人民的人。”

白求恩见毛泽东 油画

毛沢東と意見を交わすベチューン氏 油絵

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