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宝塔山における中日友好の起点
2021-08-31 19:25

 1940年11月、中日戦争下で収容した大勢の捕虜と降伏した人々の教育のため、中国共産党中央委員会と八路軍総政治部は専門学校(延安日本工農学校)の創設を決めた。翌年5月15日には、正式に入学式が挙行され、校舎は延安宝塔山南麓に設置された。

       1940年11月,为了感化教育在抗日战争中收容的一批日本俘虏和投诚人员,党中央和八路军总政治部决定创办一所专门的学校——延安日本工农学校。次年5月15日,学校正式举行开学典礼,校址设在延安宝塔山南麓。

●宝塔山で撮影された延安日本工農学校の学生(写真)

 「汽車や列車も無いなんて、なんと立ち遅れた場所だろう!劣等な武器だけで挑む八路軍は、果たして日本軍に勝利できるだろうか?粟、トウモロコシ、豆といった粗末な物を食べる八路軍と共に生活することができるのか?」これは捕虜となった日本軍兵士の大山光義が1941年初め頃に延安へ来たときの心境であり、彼によって記された『私たち14人の日本人がどのようにして延安に来たのか』という文章の一部分である。

       “连一辆汽车、火车都没有,是多么落后啊!只用劣等武器作战的八路军,能够战胜日军吗?和吃小米、玉米、豆子的八路军,能够一块生活吗?”这是日本战俘大山光义1941年初到延安时的心境,被记录在他写下的《我们十四个日本人怎样到延安来的》文章中。

 八路軍にとって捕虜となった日本軍兵士の思想を変えることは決して容易な事ではなく、彼らは当時、盲目的な敵対心を持ち、更には暴力的に救助者を傷つけていた。それでもなお、八路軍は誠心誠意彼らと接し、人格と信仰を尊重し、監視せず、体罰や罵倒などせず強制的、高圧的ではない方法で彼らをまとめた。当時の条件は非常に厳しく、中国共産党の幹部や戦士も時として粟飯でさえ食べられる保証がない状況で、延安日本工農学校の日本人学生は外国籍の友人として待遇されるため、毎月1人につきお米7.5kg、小麦粉7.5kg、豚肉1.5kg、野菜15kgを手にすることができた。

       要让日本战俘转变思想并不是件容易的事,这些战俘一开始怀着盲目的敌对情绪,甚至以暴力方式伤害救助人员。即便如此,八路军仍以真诚和真心感化他们,尊重他们的人格和信仰,不设高墙卫哨,不使用体罚、打骂等强制和压服的方法管理学员。在当时条件艰苦、甚至在中国共产党的干部、战士有时连小米饭也保证不了的情况下,延安日本工农学校的日本学员被视为外籍朋友来对待,每人每月能拿到大米15斤、面粉15斤、猪肉3斤、蔬菜30斤。

 また、大山光義は当時のことを次のように綴っている。隊長は私たちを大変気にかけてくれ、私たちの要求に対し、いつも応えてくれた。生活改善の方面に対してもできる限り力を尽くしてくれた。そして、八路軍は私たちに代わり部屋を空け、私たちを迎え入れ、手厚くもてなし、教育した。これに対し、どんなに愚かな人でさえも感謝の涙を流し、二度と悪いことはしないと心に決めたのである。

       大山光义写道,队长对我们非常关心,凡我们的要求,不管怎样总尽量答应。对于生活改善方面,也尽了最大的努力。八路军替我们腾让房屋,以实际行动和事实来迎接我们,优待我们,教育我们。对于这,就是再糊涂的人也要感激涕零的,决不愿再做坏事情了。

 当時、学生だった中小路静夫は次のように振り返る。学校での勉強や生活、課外活動はすべて学生が主体となっていた。教員は一律日本語で授業していた。先生たちの話は分かりやすく、学生からも大変人気があった。学校の授業は内容が豊富で、マルクス・レーニン主義、政治経済学、社会発展史、日本問題、中国問題、文化、中国語など多方面に及んだ。また、野球とバレーボールも必修科目に追加された。延安で過ごす日々の中で、日本人学生は彼らの多くの善意と、延安の民主的な建設によってあふれる活気を感じていた。

       学员中小路静夫回忆说:学校的学习、生活、课外活动皆由学生自治。教员上课一律用日语。老师们讲得通俗易懂,深受学员欢迎。学校开设的课程内容丰富,涉及马列主义、政治经济学、社会发展史、日本问题、中国问题、文化、中文等方方面面。打棒球和排球也被列为正课。在延安的每一天,日本学员都感受着源源不断包裹着他们的善意,以及延安因民主建设而散发出的勃勃生机。

 堅氷はいつか春の水に変わる。思想の変化につれて、日本人学生に選挙権と被選挙権が与えられるようになった。1941年に陝甘寧(陝西省、甘粛省、寧夏省)辺区で第二回普通選挙が挙行された際には、民主建政原則に基づき、学生の森健が辺区参議会議員に、中小路静夫も延安市参議会議員に当選し、辺区民主政府の仕事に直接参与した。

       坚冰终有化为春水的一天。随着思想的转变,日本学员更享有选举和被选举权。1941年陕甘宁边区举行第二次普选时,依照民主建政原则,学员森健当选为边区参议会参议员,学员中小路静夫则当选为延安市参议会议员,直接参与边区民主政府的工作。

 1941年10月、延安で開催された東方民族大会において、大山光義を含む35名の日本人が正式に八路軍へ参加することを宣誓した。学生らは《八路軍、新四軍の指揮官に述べた書》の中で、感慨深げに「あなた方は私たちを侮辱しなかっただけでなく、私たちを生かし、私たちを敵として扱わず、さらには私たちに十分な自由や平等、安全と手厚い物資で待遇してくれた。八路軍は私たちを友人や兄弟、同志として接してくれた。」と述べた。そして、中日戦争の後期には、日本工農学校を卒業した学生を中心とした反戦同盟が日本人民解放連盟に改組され、一部の日本の同志らは反戦活動に命を捧げた。

       1941年10月,在延安召开的东方民族大会上,包括大山光义在内的35名日本人,宣誓正式参加八路军。学员们在《致八路军、新四军全体指战员书》中感触地说:“你们不但没有侮辱我们,没有杀害我们,没有把我们当做敌人,而且还给我们充分的自由、平等、安全和优厚的物质待遇。八路军把我们当做朋友、兄弟和同志看待。”抗战后期,以日本工农学校毕业学员为主的反战同盟改组为日本人民解放联盟,一些日本同志甚至还为反战工作献出了生命。

 1945年8月30日、創立してから4年余りの時間をかけて、数百名の日本兵士を教育した延安日本工農学校は歴史的な使命を果たし終えた。八路軍と日本人学生が宝塔山で結ばれた戦闘の絆を、今もなお美談として人々に伝えられている。この歴史は、中国人民が強暴な勢力を恐れず、勇敢に抗争したことも証明しているが、平和をより大切にし、情け深く思いやりを持ち、国際的な道義を通じて平和と正義を実現するよう努力した歴史でもあるのだ。

       1945 年 8 月 30 日, 开办了四年多、培养教育了数百名日本士兵的延安日本工农学校结束了历史使命。八路军同日本学员在宝塔山凝结的战斗情谊,至今仍传为佳话。这段历史也证明,中国人民不畏惧强暴、勇于抗争,但更珍视和平,仁恕宽宏,努力通过国际道义实现和平与正义。

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